出羽山形のサケを愛した戦国武将 主君・最上義光と重臣・鮭延秀綱 | 週刊サケ・マス通信

出羽山形のサケを愛した戦国武将 主君・最上義光と重臣・鮭延秀綱

出羽山形のサケを愛した戦国武将 主君・最上義光と重臣・鮭延秀綱

南北朝時代からの旧名「鮭延郷」

<2013.1.25日号特集記事> 

 鮭川村を含む山形県北部の最上地方には「サケ」の付く地名が多いことでも知られている。最上川に平安期からあったとされる河川物流の拠点・川船の駅(水駅)の1つが「佐芸(サケ)の駅」と呼ばれていたことで知られるほか、鮭川の北に位置する真室には中世・南北朝時代からみられる旧名として「鮭延郷」(さけのべ・鮭登とも)がある。

 この「鮭延」の名は、戦国時代に知略の将として有名な大名・最上義光(よしあき)の家臣として活躍した鮭延秀綱が名乗ったことで知られる。鮭延氏は当初、佐々木氏を名乗り、現在の鮭川村南に位置する戸沢村、鮭川と最上川が交わる辺りを拠点に小野寺氏に仕えていたが、秀綱の父・貞綱の代の16世紀半ばに西から大宝寺武藤氏の侵攻を受けて真室に退き、同地で鮭延城を築城。この頃に地名にならって「鮭延」と名乗るようになったという。


 秀綱の代、天正年間に入ると今度は南の最上氏が勢力を拡大し同地への圧力を強めるようになる。間もなく降伏を余儀なくされるが、その後は配下の将として最上躍進に多大な貢献を果たし、義光の厚い信頼を得るまでに。最上領北部の守護として地の利を生かした外交戦略などが高く評価されているほか、関が原の戦いに呼応した上杉軍との衝突では、敵将・直江兼続にその武勇を称えられるほどの奮闘をみせ、戦後に最上氏が出羽57万石に封じられると秀綱には真室城1万1500石が与えられた。


 重臣としての地位を不動のものとした鮭延氏だが、江戸時代初期に起こった主君・最上氏の家督騒動に伴う改易により、佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の土井氏預かりとされる。1630年代に入ると今度は土井氏の転封により古河(現在の千葉県古河市)へ。秀綱は同地で間もなく他界、同地には家臣が菩提を弔うために建立した「鮭延寺」(けいえんじ)が現存している。鮭延氏が改名した本当の理由は分からないが、特に食糧事情が厳しかったであろう当時、無数のサケがそ上する恵み溢れる豊かな鮭川に魅せられたのが理由の1つかもしれない。

義光はサケを欲して領土拡大?

義光 鮭延氏が仕えた最上氏は南北朝時代に出羽に入った元々名家だったが、次第に周辺から侵食を受けるようになり、1500年代に入るころには伊達氏の傘下に入るほど衰退。16世紀後半、名将・義光=写真=の代になって戦国大名として復興を果たす。体躯に恵まれた勇将だった一方で知略・謀略を駆使する頭脳派としても知られ、ついには出羽57万石を治める大大名にまで出世した。


 伊達政宗の叔父に当たる義光だが、彼は無類のサケ好きだったと伝えられる。サケを贈られたことに対する礼状が多く残っているほか、徳川家康を筆頭に貢物やお礼品として特産の塩サケを贈ることが多かったようだ。越後の上杉氏と庄内を巡り領土争いを繰り広げたのもサケが欲しかったからとか。豊富に水揚げされるサケをはじめとする海産物は、当時としてはかなり貴重な食糧物資だったはず。「サケ好き」の逸話は少々一人歩きしている感はあるものの、サケが現在では考えられないほど貴重で重要な特産品の1つだったことをうかがい知るエピソードとも言えそうだ。
 【取材協力=鮭川村地域おこし協力隊・青西靖夫様 参考=最上義光歴史館、山形県鮭川村の暮らしとうまいもん・地域おこし協力隊隊員ブログ、マルハニチロ・サーモンミュージアム】

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