特集記事・連載など

 北海道初のサケ人工ふ化施設 幻の「札幌偕楽園ふ化場」-2

 北海道で初めてサケ・マス類の人工ふ化が試みられた「札幌偕楽園ふ化場」(札幌市北区北7条西7丁目)。当時のふ化試験は一体どのように行われていたのだろうか。  技術的にも施設的にもまだまだ未熟だったであろう明治初期、それを支え補っていたのはやはりつくり手の「情熱」や「熱意」といった部分だったことは想像に難くない。連載2回目の今号では、同ふ化場が行った採卵・ふ化、移植試験などの概要について紹介する。

 

 「トリート勧告」に基づくふ化事業開始は誤り?

seikatei

現在も同地に残っているのは貴賓接待所として1880(明治13)年に建てられた「清華亭」だけ。内部は開放されており、「偕楽園ふ化場」に関する展示パネルもある。

 1878(明治11)年1月、前年からの準備期間を経て札幌偕楽園で北海道初の人工ふ化試験が行われる。偕楽園での試験に関しては後に、前年9月に開拓使の要請で缶詰製造の技術指導のため来道した米国人技術者U・S・トリートの勧告に基づいて着手されたとの認識が一般的だが、実際には1876年(明治9)年に茨城県那珂川で行われた人工受精法によるふ化試験に基づき、開拓史がしっかりとした準備を経た上で実施に移されたものだった。

 トリートは実際、本業だった石狩での缶詰製造の技術指導がサケのそ上不振によって11月末に早々と中止となった1877(明治10)年12月から翌年1月まで偕楽園でのふ化試験に関与している。しかし、この間、卵の移送に携わったものの、搬送途中に卵をすべて凍結・へい死させてしまった。

 彼は同年4月、当時の開拓使長官・黒田清隆に宛て報告書を提出しているが、この中でこの時のてん末について「サケ卵の人工ふ化試験に取り組んだが、運搬する際に卵が凍結してしまい失敗した。親魚を生簀(いけす)で運んで採卵すべき」との報告を残した。

 

 十分な技術的知識を持って開拓使による試験がスタート

 トリートはあくまで缶詰製造が本職の技師。サケの増殖法に関して正しい知識を持っていたかは疑問で、卵搬送の失敗報告とともに「施設整備を行った上でサケのふ化放流事業を推進するべき」との助言も付け加えたことで、この長官宛という報告書の性質上、後年になって「彼の勧告によるもの」と間違った解釈が広まったものと推察される。

 偕楽園跡に現存する「清華亭」内にある展示パネルにも「同地でのサケふ化試験がお雇い外国人の指導で始められた」との記載があり、現地でさえも「誤った事実」が伝えられている。  彼の関与が単なる立会いだったのか、指導を含めたものだったのか、はっきりと示す資料は残されていない模様だが、当時すでに卵を安全に輸送する手法(アトキンス法)が発案されており、開拓使の担当者もこれを心得ていたようだ。それを裏付けるようにトリートの失敗を受けすぐに千歳川産のサケから採取した卵4万粒前後の搬送を成功させている。

 このうち発眼に至ったのは2000粒ほどにとどまったものの、一部を函館に輸送し湧水を使ってふ化させるなど、初の試みとは言え、十分に技術的な知識を得た上での挑戦だったことがうかがえる結果を残している。ちなみに、この時にふ出した稚魚は新設された函館支庁博物館(現在の市立博物館)で展示されたという。

 

 低い生残率も工夫を重ね積極的な移植放流

 同年9月には札幌の琴似川で約4万粒、同月に千歳川の支流漁(いさり)川で10万粒のマス(サクラ)の採卵に成功。発眼卵は琴似川産で約6000粒(歩留まり15%)、漁川産で7500粒(同7%)と少量にとどまったが、うち5000粒を東京官園に輸送したほか、約2000粒については同地で無事ふ化にこぎつけた。

開拓使の画師・一の瀬朝春によって画かれた「札幌偕楽園ふ化場」の施設内の様子(1878~1879年)。左側にある水車で河川から水を汲み上げて、6つのふ化槽に設置されたふ化器へと水を絶え間なく循環させる仕組みとなっている。

開拓使の画師・一の瀬朝春によって画かれた「札幌偕楽園ふ化場」の施設内の様子(1878~1879年)。左側にある水車で河川から水を汲み上げて、6つのふ化槽に設置されたふ化器へと水を絶え間なく循環させる仕組みとなっている。

  当時使われていたふ化器は長さ18寸・幅10寸・深さ6寸(1寸=約3センチ)の木箱の底に金網を張ったもので、底の網の上に卵子を敷き、流れの中に浮かべて設置するという簡単な構造の通称「浮きはこ型」と呼ばれるふ化器だった。工夫や改良を試みつつも、知見不足や技術・管理の未熟さなどからへい死率は極めて高く、当時の交通事情に伴う運搬の長時間化も関係したものと想像される。  また、資源保護の観点からたびたび川で禁漁の命令が出される状況にもあり、当時のそうした経緯もあって親魚確保はそう簡単なものではなく、開拓使の事業とは言え、警察側との折衝にも労があったようだ。

 このほか、水虫などの害虫混入を防止する取り組みも行われ、この年の12月に市内豊平川で採卵した6万粒については、同じ市内で搬送に時間がかからなかったことなど好要因も手伝ったためか、記録によればうち3万5000粒(歩留まり58%)の発眼卵を確保、生残率の大幅な向上も達成している。(つづく)

 「週刊サケ・マス通信」2011年3月11日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

 幻の「偕楽園ふ化場」―3へ

  北海道初のサケ人工ふ化施設 幻の「札幌偕楽園ふ化場」-1

 北海道で初めてサケ・マス類の人工ふ化が試みられた場所をご存知だろうか? 意外に思われる方もいるかもしれない。答えは、現在の札幌市北区北7条西7丁目を中心に存在した「偕楽園」(かいらくえん)と呼ばれる公園内にあった施設でのこと。JR札幌駅から西へ3丁、在札水産関係団体の多くが入居する水産ビル(中央区北3条西7丁目)から北に数百メートル進んだ場所で、札幌市のほぼ中心部に当たる。

 ここで約135年前の1878(明治11)年1月に開拓使によって収卵飼育試験が行われた。同期に函館近郊の七重勧業試験場で行われた採卵試験とともに日本のサケ・マス類人工ふ化事業の黎明期(れいめいき)に位置付けられている。 ただ、現在まで連綿と連なるふ化事業の本流は1888年(明治21)年に千歳川上流域に建設される「千歳中央孵化場」まで待たなければならず、この「札幌偕楽園ふ化場」での試みは結果的に失敗に終わり、わずか数年で事業は打ち切られることになる。今では同地に公園はもちろん、河川すら残っておらず、当時を知る建物は貴賓接待所として建てられ市の有形文化財に指定されている「清華亭」だけ。

 世界トップの技術と実績を誇る日本のサケ・マス人工ふ化事業―。しかし、サケに関して言えば一時のピークを期に来遊数は不安定かつ減少に向かっており、地球規模の環境変化が叫ばれ、増殖事業の民営化の流れがより加速する中、資源造成の行く末を不安視する声は多い。「原点回帰」の意味合いも込めて、短命に終わった制度上日本初の公園となる「偕楽園」と近年になって北海道大学構内に再現されたサクシュコトニ川(旧琴似川)の歴史に触れつつ、幻の「札幌偕楽園ふ化場」を短期集中連載で紹介する。

 今や河川すらない札幌中心部にふ化事業の原点が

前年から準備を進め、明治11年1月に千歳川産の種卵を使ってふ化試験を成功させた札幌偕楽園ふ化場。今は川すらないが、当時は湧水に加えて池もあり、サケも普通にそ上していた。

 サケ・マス類の人工ふ化事業の概要が日本に伝わったのは、1873(明治6)年、オーストリアのウィーンで開かれた万国博覧会に参加した派遣団の見聞だと言われている。「文明開化」間もない日本にとって漁業振興をはじめとする産業基盤の底上げは最重要課題と位置付けられており、この時の見聞を基に1876(明治9)年、茨城県那珂川で行われた人工受精法によるサケ卵の採取が日本で最初のサケ・マス人工ふ化事業だとされている。親魚を捕獲し3万粒ほどを採卵、同河川近くの湧水に収容し翌年春にふ化した稚魚を放流したとの記録が残されている。

 ただ、古くは江戸時代中期にすでにサケの増殖方法を具体的に記した文献が残されているなど、一部ではすでにサケの持つ母川回帰という特性についての認識が持たれていたことが知られている。独自のサケ文化を持つ新潟県では18~19世紀に「種川制」と呼ばれる自然産卵を助長・保護する資源維持の取り組みが行われており、その豊かな資源が藩の財政を助けたとも伝わる。古来からサケにとても馴染みの深かった日本人ならではエピソードだ。

 札幌の偕楽園でふ化事業の準備が進められたのは、那珂川で実施された試験の約1年後、1877(明治10)年のこと。偕楽園は1871(明治4)年、開拓判官・岩村通俊(後に初代北海道庁長官)によって造成された札幌最初の公園で、公制度上の公園としては日本で最初のものとされている。当時この付近は開拓使が主に農畜産業における試験・普及事業を行う通称「官園」と呼ばれる一帯で畑が広がっていた。  このため偕楽園は単に住民の憩いの場としての役割だけでなく、ふ化施設とともに育種場や博物館などが建設されるなど、言わば現在の試験・学術研究機関の原点ともなる道内産業振興の拠点的な役目を担う非常に重要なエリアだったと言える。

 元来は緑豊かな原始林が生い茂る地区で、現在は市内でも中心地に程近いという印象が強いが、当時は東西の起点となっている創成川沿いから開発が進んだこともあって、まだまだ自然豊かな地域だった。水産ビルの西側に広大な敷地を持つ現存の北大植物園もこの流れで同地に造成されたもので、起源は偕楽園内の博物館に当たる。

 千歳川産サケから約5万粒を採卵、移植しふ化に成功

 豊かな自然を背景に地下水が豊富だった札幌には自然湧水が数多くあったと伝えられ、現植物園の北側からも泉が湧き出ていた。これが集まり清流として知られたサクシュコトニ川を形成。当時の偕楽園内には小さな池も存在し、北大構内を流れ琴似川に注いでいた。浅い川だったが、昭和初期まではサケのそ上する姿が普通にみられたという。

 準備を経た1878(明治11)年1月、千歳川でメスのサケ15尾から約5万粒ほどを採卵し、偕楽園のふ化施設へ運搬、見事ふ化試験を成功させた。ただし、漁業資源の増大を図ることを目的とした本格的なふ化事業としては1888年(明治21)年、官営の「千歳中央孵化場」(現在の現在の独立行政法人水産総合研究センター北海道区水産研究所千歳さけます事業所)の開設まで待たねばならず、当時これと前後して道内各地に民営のふ化場が次々とつくられるようになったという。(つづく)

 「週刊サケ・マス通信」2011年3月4日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

 幻の「偕楽園ふ化場」―2へ

定置網漁業者手帳

 定置網漁業者手帳は
 売り切れました
 漁網用防汚剤専門メーカーのバッセル化学株式会社が誇る大人気の船底塗料「新海物語」シリーズ! 上バナーから特設ページへ