特集記事・連載など

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日頃より「週刊 サケ・マス通信」をご愛顧いただき、誠にありがとうございます。

突然ではございますが、本紙発行人、水谷豪儀、去る8月2日に急逝いたしました。

故人が生前に賜りましたご厚情に心より感謝申し上げます。

併せて、誠に遺憾ながら「週刊 サケ・マス通信」廃刊のご案内を申し上げます。

故人が運営してきた本サイトにつきましても今後、更新されることはございません。

長年ご愛読をいただきました皆様方に厚く御礼申し上げます。

ありがとうございました。

2016年8月12日     

出羽山形のサケを愛した戦国武将 主君・最上義光と重臣・鮭延秀綱

南北朝時代からの旧名「鮭延郷」

<2013.1.25日号特集記事> 

 鮭川村を含む山形県北部の最上地方には「サケ」の付く地名が多いことでも知られている。最上川に平安期からあったとされる河川物流の拠点・川船の駅(水駅)の1つが「佐芸(サケ)の駅」と呼ばれていたことで知られるほか、鮭川の北に位置する真室には中世・南北朝時代からみられる旧名として「鮭延郷」(さけのべ・鮭登とも)がある。

 この「鮭延」の名は、戦国時代に知略の将として有名な大名・最上義光(よしあき)の家臣として活躍した鮭延秀綱が名乗ったことで知られる。鮭延氏は当初、佐々木氏を名乗り、現在の鮭川村南に位置する戸沢村、鮭川と最上川が交わる辺りを拠点に小野寺氏に仕えていたが、秀綱の父・貞綱の代の16世紀半ばに西から大宝寺武藤氏の侵攻を受けて真室に退き、同地で鮭延城を築城。この頃に地名にならって「鮭延」と名乗るようになったという。


 秀綱の代、天正年間に入ると今度は南の最上氏が勢力を拡大し同地への圧力を強めるようになる。間もなく降伏を余儀なくされるが、その後は配下の将として最上躍進に多大な貢献を果たし、義光の厚い信頼を得るまでに。最上領北部の守護として地の利を生かした外交戦略などが高く評価されているほか、関が原の戦いに呼応した上杉軍との衝突では、敵将・直江兼続にその武勇を称えられるほどの奮闘をみせ、戦後に最上氏が出羽57万石に封じられると秀綱には真室城1万1500石が与えられた。


 重臣としての地位を不動のものとした鮭延氏だが、江戸時代初期に起こった主君・最上氏の家督騒動に伴う改易により、佐倉藩(現在の千葉県佐倉市)の土井氏預かりとされる。1630年代に入ると今度は土井氏の転封により古河(現在の千葉県古河市)へ。秀綱は同地で間もなく他界、同地には家臣が菩提を弔うために建立した「鮭延寺」(けいえんじ)が現存している。鮭延氏が改名した本当の理由は分からないが、特に食糧事情が厳しかったであろう当時、無数のサケがそ上する恵み溢れる豊かな鮭川に魅せられたのが理由の1つかもしれない。

義光はサケを欲して領土拡大?

義光 鮭延氏が仕えた最上氏は南北朝時代に出羽に入った元々名家だったが、次第に周辺から侵食を受けるようになり、1500年代に入るころには伊達氏の傘下に入るほど衰退。16世紀後半、名将・義光=写真=の代になって戦国大名として復興を果たす。体躯に恵まれた勇将だった一方で知略・謀略を駆使する頭脳派としても知られ、ついには出羽57万石を治める大大名にまで出世した。


 伊達政宗の叔父に当たる義光だが、彼は無類のサケ好きだったと伝えられる。サケを贈られたことに対する礼状が多く残っているほか、徳川家康を筆頭に貢物やお礼品として特産の塩サケを贈ることが多かったようだ。越後の上杉氏と庄内を巡り領土争いを繰り広げたのもサケが欲しかったからとか。豊富に水揚げされるサケをはじめとする海産物は、当時としてはかなり貴重な食糧物資だったはず。「サケ好き」の逸話は少々一人歩きしている感はあるものの、サケが現在では考えられないほど貴重で重要な特産品の1つだったことをうかがい知るエピソードとも言えそうだ。
 【取材協力=鮭川村地域おこし協力隊・青西靖夫様 参考=最上義光歴史館、山形県鮭川村の暮らしとうまいもん・地域おこし協力隊隊員ブログ、マルハニチロ・サーモンミュージアム】

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本州内陸の地に残る独自の塩引き「鮭の新切り」

後世へ食文化の伝統を継承 取り組みも盛んに

【特集・山形県鮭川村伝統のサケ文化】
<2013.1.25日号特集記事>

ようのじんぎり 「鮭の新切り」という言葉を聞いた事があるでしょうか? これは山形県北部に位置する鮭川村で伝統的に食されている塩引きサケのことなのですが、読み方がユニークで「鮭」は「サケ」とはそのまま読まず、「よ」もしくは「よう」、さらに「新切り」は「ずんぎり」「じんぎり」となります。そのままひらがな表記すると「ようのじんぎり」。塩引きのサケが現地ではなぜこう呼ばれているのでしょう。最上川の支流で村名の由来ともなった清流・鮭川周辺には、この「ようのじんぎり」に代表される独特なサケの食文化や伝統漁法が残っており、後世に伝える様々な取り組みも盛んなようです。今週はやや趣向を変えて「魚の名前学特別編・山形県鮭川村のサケ文化」を特集します。

 鮭川村は山形県北部・最上地方に位置する自然豊かな村で、名前は最上川の支流となる村内に流れる鮭川にちなんだもの。この鮭川は古来から多数の秋サケがそ上する河川として知られるほか、アユやイワナなどの川魚が棲む国内有数の清流としても広く著名。漁業が盛んな酒田市と西側で隣接するものの、海とは直接面していない同地で独自の魚食文化が長らく守られてきたのは、サケが時期ともなれば群をなして上流までそ上し、内陸の人たちにも大きな恵みをもたらす存在の魚種だからこそと想像できる。特に食糧事情が厳しかった一昔前までは冬を越すための保存食としても大変貴重なものだった。

ようのじんぎり2 この鮭川村周辺に残るサケの伝統食が「ようのじんぎり」。日本海から最上川~鮭川と60㌔余りをそ上してきたサケを漁獲後に内臓を除去、10日以上塩漬けし、水洗い後に熟成のために寒風にさらす言わば寒干しで、民家の軒先から吊るされる光景が同地の冬の風物詩ともなっている。特徴的なのが熟成期間の長さで、1カ月半から最長2カ月もの期間を熟成に当てることでゆっくりとうま味を濃縮、濃厚な味わいを引き出す。同じ本州日本海側で知名度の高い新潟県村上の伝統的な塩引きサケと比べても2倍近い期間を熟成に当てるのが大きな違いで、焼いて良し、煮ても良しの昔懐かしい家庭の味に仕上がる。

「新切り」の名前の由来は刻み煙草入れとキセルから?

 この寒風干しされた塩サケがなぜ現地で「ようのじんぎり」と呼ばれるのか? 現地の方言でサケのことを「ヨウ」もしくは「ヨオ」「ヨ」と呼ぶ。この語源は魚全般のことを指す「ウオ」と推測されており、これが「イオ」→「オ」→「ヨオ」「ヨ」「ヨウ」と変化したと考えられている。先に触れた新潟県村上周辺ではサケのことを「イヨボヤ」(「イヨ」も「ボヤ」も魚を表す重ね言葉。「魚の中の魚」という意味でサケを非常に大切にした)と呼ぶのとルーツ的に同じと考えられている。また、一昔前まではそ上するサケがとても多く、産卵場を目指してワサワサと寄って来る姿が「異様」な光景だったので「イヨウ」→「ヨウ」と呼ぶようになったという逸話もある。

 では「新切り」(じんぎり)の由来はというと、これがはっきりしないようだ。ただ、この辺りで「じんぎり」「ずんぎり」と言えば、刻み煙草入れの事を指す。今では目にする機会は少ないが、刻み煙草入れとキセルが短い組ひもで対に結ばれている形が干しているサケの容姿に似ていることにちなんで――という説があることから、現在では腹を開いて1尾づつ頭を下にして吊るすのが一般的ながら、昔は2尾対にして吊っていた時代があったのかもしれない。

教室開催し、楽しく美味しくつくり方を村民に伝授

 どの地域にとっても同様だろうが、鮭川村でも時代とともにこうした伝統食に親しむ機会は残念ながら減る傾向にあるが、現地ではサケに関する食文化や伝統を守ろうと様々な取り組みが実践されている。教育委や観光協会が、地元有志で結成された「サーモンロードの会」の指導で毎年開催している「ようの新切り教室」もその一環。ともすれば馴染みが薄くなりがちなこうした伝統的なサケ文化を後世に伝えようとつくり方を楽しく、そしておいしく伝授する試みも行われている。

最上漁協がふ化事業を推進 釣獲調査など遊漁管理も

 山形県の秋サケは近年、総来遊数で20万尾をやや下回る水準で推移。24年度は12月末までの集計で18万3000尾と前年並みの水準を堅持している。他地区と同様に30万尾前後を記録した平成16~18年をピークにやや縮小傾向にあるが、急落著しい太平洋側に比べると少ないながらも安定。沿岸での漁獲比率は低く、大部分が再生産用として捕獲された親魚の利用となる。

 道内では民間の各地区増殖協会が事業主体となってサケの捕獲採卵、ふ化、稚魚育成に取り組む体制となっているが、本州地区の大半では漁協がその任に当たることが珍しくない。同地でのサケの人工ふ化事業は明治末期から行われており、その歴史は古い。現在は鮭川村と北側で隣接する真室川町に本所のある内水面の最上漁協が管理運営を行っている。鮭川は清流として知られることから釣りなどの遊漁が盛んで、サケの増殖事業のほか、規則に基づくサケ釣獲調査など遊漁管理も重要な仕事だ。

同地独特の漁法「モンペ網」でサケを捕獲していた時代も

 現在では当然ながら親魚の捕獲には一般的なウライが使われているが、一昔前にはこの地方独特の川におけるサケ漁に「モンペ網漁」というものがあった。8つの袋状になった網が平行に並んだ構造で、1つの袋網部分が農作業などに従事する女性がはく「モンペ」に似ていることから付いた名称。見ようによっては「股引」(ももひき)や「靴下」にも似ている。これで溜まったサケを獲るのだが、これはそ上途中の川に仕掛けるのではなく、産卵場の下流に仕掛けるという点で非常に独創的。

 日本系サケはオホーツク海からベーリング海へと2万㌔とも言われる長旅を経て生まれ故郷の川へと回帰する。苦労の末にごく一握りがやっと終着点となる産卵場にまでたどり着く訳だが、それでも試練は終わらない。オスには人生最後の戦い、メスを勝ち取り自身の子孫を伝えるためのバトルが残っている。産卵場では1匹のメスを巡って複数のオスがし烈な争いを繰り広げる。この時、戦いに敗れたオスが追い払われて疲労しやや下流へ流されると、モンペ網の袋部分に魚が入り込んで漁獲されるという構図。袋網に枯葉などが溜まると魚が入らなくなるという欠点があるため、昔はその場で漁師たちが酒を酌み交わしながら魚が入るのを待っていたんだとか。 
 【取材協力=鮭川村地域おこし協力隊・青西靖夫様 参考=最上義光歴史館、山形県鮭川村の暮らしとうまいもん・地域おこし協力隊隊員ブログ、マルハニチロ・サーモンミュージアム】

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「こだわり」を全面に本物志向強まる

 =冬ギフト・歳末サケ商戦真っ只中=

 心を伝える「職人技」による手づくりサケ製品をPR

00 今年も早いもので残すところあと半月足らず、消費地の百貨店、量販店は冬ギフト・歳末商戦真っ只中の時期を迎えている。本年は「アベノミクス」に象徴される好況感を追い風として全般的に「高級志向」へと回帰し、定番となるサケ製品も「こだわり」を全面に押し出した本物志向の逸品を各社ともにプッシュする展開。増税を控える来年は消費者の財布の紐が固くなるとの予測もあり、今期の売り込みは一層力の入ったものとなっている。

 ギフト市場においては当然ながら、いつも末端で競合を余儀なくされる養殖輸入物の出番はなく、秀逸な天然地物製品の独壇場だ。今期各社が一押しするギフト向けサケ・アイテムの数々を紹介するとともに売れ筋の傾向を探った。=写真は大丸札幌店の「北海道おすすめギフト」カタログ。テーマは「2013冬・北海道の美味を極める」=
 (「週刊サケ・マス通信12月13日号」に詳細記事掲載)

 北海道初のサケ人工ふ化施設 幻の「札幌偕楽園ふ化場」-5

 明治時代初期、産業奨励を目的に開拓使によって道内で初めてサケ・マス人工ふ化試験が行われた札幌市の「偕楽園ふ化場」(北区北7条西7丁目)。試験は一定以上の成果を挙げたものの、効率や立地の問題などもあって残念ながらわずか数年で事業は廃止されることになった。

 この10年後、現在まで130年を超える道内サケ・マスふ化放流事業の歴史の源流となる官営「千歳中央孵化場」が開設される。両ふ化場の間に直接的な関連はないものの、事業化の先鞭をつけたという点で「偕楽園ふ化場」の果たした役割は大変意義深く、後年の評価につながっている。

 連載最終回となる5回目の今回は、先人らの限りない尽力によってわが国のふ化事業が世界トップの技術を誇るまでに至った道のりを大まかに振り返ることで、民営化という再び大きな変革期を迎えている中、ふ化事業の原点を見つめ直す機会としたい。

 

 皮肉にも明治半ばから資源は減少の一途

 <ふ化事業成功に至る長く険しい道のり>

 本道ふ化事業の黎明期に存在した札幌偕楽園および函館近郊・七重勧業試験場は、ともに数年のうちにその役割を終えて事業は中断される。ただ、サケ・マスの増殖事業に対する熱意はその後も冷めることなく、各地で民営のふ化施設の整備が始まったほか、新潟県の「種川制」に習った自然産卵保護など資源維持の取り組みが多くの河川で行われた。

 そして1888(明治21)年、この後に北海道庁初代水産課長に就く伊藤一隆の尽力で千歳川に官営の「千歳中央孵化場」が開設される。伊藤は札幌農学校第一期生で、1884(明治17)年には道内水産団体の先駆けとなった北水協会を設立するなど、若くして道内水産界の指導的役割を担った行動派。アメリカで先進的なふ化事業の実態を学び、帰国後すぐに整備に取りかかる。当時のサケ・マス資源は比較的安定傾向にあっただけにまさに「先見の明」と言えるものだった。  これが刺激となって各地の民営ふ化場の整備もより加速し、明治20年代後半には道内で30ヵ所を超えるふ化施設が運営されるようになった。しかし、皮肉にもこの頃を境として道内のサケ資源は減少の一途をたどる。

 漁業者にとっても研究者にとっても長く続く不遇の時期に入り、目に見えた増殖効果を挙げられない中、官営のふ化事業は大正~昭和にかけて何度もの変遷を繰り返すことになる。親魚の売却益が運営の頼みの綱だった民営ふ化場も親魚確保すらままならなず、その多くが経営難に陥ることになった。

 

開設間もないころ、明治中期の「千歳中央孵化場」の様子。道内サケ・マスふ化事業の中核施設として、民営ふ化場の技術指導などの役目も担っていた。

 昭和9年に全道のふ化事業が官営に統一化

 「千歳中央孵化場」は、道立水試の設置に伴い明治34年にはその分場となる。明治40年には民営の西別(のちの虹別)ふ化場が道に寄贈される。  その後も国費、再び地方費運営への移管が繰り返されつつもふ化事業は継続され、1927(昭和2)年に第二期拓殖計画が打ち出されたことで国費運営によるふ化場として千歳と虹別に加えて、択捉島に「留別鮭鱒孵化場」を新設。1934(昭和9)年に再び大きな変革期を迎え、全道のふ化事業が統一化、官営の千歳、虹別、留別の3ふ化場に加えて全道38カ所の民間ふ化場が国の運営となる。

 民営ふ化場の経営難の解消という目的のほか、計画的にかつ効率的に事業を図ることで成果を上げたいとの思惑もあった。その後昭和12年に札幌中の島に新庁舎が完成したことで本庁が移転されるが、昭和16年には再び地方費に移管となり、名称が「北海道鮭鱒孵化場」から「北海道水産孵化場」に改称されている。この頃には6支場46事業場にまで体制強化が図られていた。

 

 先人らの努力が結実 100年かけて資源復活

 戦中戦後の動乱期を経て建て直しが図られたふ化事業は、1951年に施行された水産資源保護法に伴い翌年には再度機構改革が実施され、ふ化放流と調査研究を分ける措置が取られる。これにより「道立水産孵化場」と新たに発足した国営の「北海道さけ・ますふ化場」に分離されることになる。

 この頃、米国側は長年に渡って目立った成果を挙げられないでいた日本ふ化事業に対してかなり否定的で、GHQ勧告によりふ化事業は廃止か存続かの大きな岐路に立たされていた。当時の研究者や技術者はこの時の苦い経験を糧に奮発し、組織一丸となって技術向上、科学的知見の収集に取り組むことになる。沿岸定置業者も長年続く厳しい漁場経営からの脱却を目指して、徐々に協力体制を構築していこうという気運が高まりつつある頃だった。

 昭和30年代に入ると、ふ化放流の現場で積極的な技術革新が図られるようになる。用水不足を補う立体式ふ化器の導入や健苗育成のための給餌試験などが代表的なものだが、それまで長年に渡って蓄積してきたデータの存在とサケを生き物としてとらえ自然の摂理に合致した地道な取り組みがあったことを忘れてはならない。

 そして昭和40年代半ば、1970年代に入ると実に100年近くに渡って長い間低迷していたサケ資源が明白な増加をみるに至る。この資源の増加傾向が現在では当たり前になっている「つくる漁業」の先べんとなり、その後も資源管理に対する関係者の意識を高め、見事に高位安定した資源を維持するに至っている。

 しかし、近年は各種行政改革の流れでサケ・マスのふ化放流事業は再び民営化の時代に移っている。100年以上にわたって連綿と続く事業の灯火を暗くさせないためにも、関係者一体となった姿勢が問われる時代に入っている。(おわり)

  「週刊サケ・マス通信」2011年4月1日配信号に掲載(参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

 北海道初のサケ人工ふ化施設 幻の「札幌偕楽園ふ化場」-4

 事業の進展に大きな期待が寄せられた札幌市の「偕楽園ふ化場」(北区北7条西7丁目)だったが、1880(明治13)年、わずか3年余りでサケ・マスのふ化試験は中止される。  この年には貴賓接待所「清華亭」が同地につくられるが、1886(明治19)年ころになると「中島遊園地」(現在の中島公園)が整備されたことなどから「偕楽園」に訪れる人は減り、公園としての役割を失うこととなった。4回目の連載となる今回は偕楽園のその後と、同地に流れサケがそ上、天然産卵していた「サクシュコトニ川」を紹介する。

 

 ふ化事業と同様に「短命」に終わった札幌・偕楽園

 =偕楽園とサクシュコトニ川のその後=

 札幌市最初の公園として整備が進められた「偕楽園」は明治時代前期、周辺住民にとっての憩いの場としての役割のほか、サケ・マスのふ化施設を筆頭に道内最初の工業試験場とも言える「製物場」、農業技術研修生の宿舎「生徒館」や「花室」(温室)など、開拓使による産業奨励、試験研究施設が数多く設けられていた。

 近隣には西洋農作物の試験栽培場やブドウ園も存在、西側には養蚕を奨励する目的から大規模な桑畑がつくられ、今も地域名として残る「桑園」(現在でも服飾関連メーカーが多い)、北側には現在の北大構内に道内初の競馬場(円形競技場)もあった。また、園内には西南戦争に従軍して戦病死した琴似、山鼻の屯田兵のための「屯田兵招魂碑」もあり、毎年8月に行われた「招魂祭」は札幌神社の大祭よりも賑やかだったと伝えられている。

 

1880(明治13)年に建設された当時の札幌「清華亭」。手前には今は現存しないサクシュコトニ川の流れがみえる

 サケ・マスのふ化事業が廃止となってしまった1880(明治13)年には、園内に「清華亭」が整備される。貴賓接待所として開拓史が建設したもので、様式は全般に米国風ながら内部には和室も設けられており、美しい庭園を持つ和洋折衷が特徴の建物。建設翌年には明治天皇の札幌訪問の際に休憩場所として使用された。当時の「偕楽園」を知る唯一の現存物で、その頃の建築様式を伝える数少ない建物(他に豊平館、時計台など)として後に市の有形文化財に指定されることになる。

 

 開拓使の廃止で状況が一変

 産業奨励だけでなく文化的な側面も併せ持った複合的な公園エリアとして機能していた偕楽園だったが、開拓史が廃止され北海道庁が置かれる明治中期に差し掛かるころになると急速に様相が変わってくる。開拓使時代の官営事業施設の民間への払い下げが始まったことに加えて、当時はまだ市街地だった現在の中島公園に新たに「中島遊園地」が整備されたことなどから来園者が減少。

 1897(明治30)年には使い道のなくなった「清華亭」さえも民間へ売却されることになるなど、1871(明治4)年の整備からわずか20年余の短い期間で公園としての役割を失うことになる。その後は再び元来の野原に返り、虫捕りや魚釣りなどをする子供たちの格好の遊び場となった。

 

 昭和初期までは毎年秋になるとサケがそ上

 人家が立つようになるのはさらに20年後の大正時代半ばに入ってから。現在の同地には池や河川はなく、その形跡すら存在しない。当然ながら100年以上も前にサケ・マスのふ化施設があったことを知る人も少ない。しかし、昭和初期までは浅い小川ながらも毎年秋には必ずサケがそ上するサクシュコトニ川というきれいな河川が存在した。

 サクシュコトニ川は琴似川の支流の中で最も東に位置した河川。水産ビルの西側に位置する北大植物園の北から湧き出る湧水を源に、偕楽園エリアでさらに同地の湧水と合流、小川と池を形成して北上し北大構内を流れて琴似川と合流していた。河川に沿って続縄文時代(紀元前3世紀~紀元後7世紀)の集落跡も多数見つかっており、豊富にそ上するサケは古くから現地の人々に利用されてきた。

 明治時代、ふ化試験が中止されて偕楽園が公園としての役目を終えてからも同地に流れ続けていたが、戦後の昭和20年代に入って都市化の進行に伴い水位が低下、まもなく枯渇し、川は一部が埋め立てられ宅地となる。札幌中心部は元来、地下水に恵まれた土地だった。しかし、多くが開発とともに枯渇したり、地下に暗渠(あんきょ)化されており、サクシュコトニ川も同様の命運をたどった。

 近年になってこの流れを復活させようとの気運が高まり、市と北大が連携し2004(平成16)年には北大創基125年を記念して構内に水流が復元されている。河川すらなくなった現地で当時をしのばせる物は今や「清華亭」だけ。ただ、町内会や建物などの名称として100年後の今も「偕楽園」は残っている。また、水は枯れても豊かな湧水があった時の名残りから、以前池のほとりだった現在の緑地内に「井頭(いのがみ)龍神」という水神信仰の社(やしろ)が現存している。(つづく)

 「週刊サケ・マス通信」2011年3月25日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

 幻の札幌「偕楽園ふ化場」―5へ

 北海道初のサケ人工ふ化施設 幻の「札幌偕楽園ふ化場」-3

 北海道で初めてサケ・マス類の人工ふ化が試みられた「札幌偕楽園ふ化場」(札幌市北区北7条西7丁目)。開拓使によって1877(明治10)年から準備が進められ、まもなく施設が新築されるなど、その後の進展が期待されたが、1880年(明治13)年にわずか3年足らずの試験期間だけで事業は突如中止となってしまう。  連載3回目の今号では、前回に続いて同ふ化場が行った試験の概要に加えて、なぜ試験事業が中止に至ったのか、中止が決まるまでの経緯などについて紹介する。

 湧水使いふ化施設新設、長期の養魚試験も

 <順調にみえた試験事業のその後>

 事業の本格始動から2年目に当たる1879(明治12)年も盛んに移植放流などに取り組んだ。2月には発眼卵2万9000粒を東京官園・新宿試験場へ輸送。東京官園ではこのうち9000粒をふ化させ、8月に玉川へと放流している。11月には場内の湧水河川を利用したふ化施設が新設される。6段のふ化槽を配し、水車によって水を汲み上げる立派なもので、同時期には養魚池の下流に管理目的の水門を設置するなど事業規模を拡大強化。

  同月には豊平川産と思われる親魚から24万粒の卵を確保。12月には択捉島産のベニ卵約4万粒を根室で発眼させ、それを搬入する予定だったが、輸送中の函館で大火に遭遇し、到着したのは3000~4000粒となったとの記録も残る。

 

 わずか3年余りでふ化試験事業の中断が決定

 同年の報告書によると、前年の1878年(明治11)年初めにふ化したサケ稚魚は8寸(24センチ)、同年秋に採卵したマスについても6寸5分(21センチ)に成長しているとの記述がみられ、ふ化稚魚を長期間にわたって飼育管理することにも成功していることが分かる。

 さらにこの年には時期不明ながらサケ幼魚約100尾に標識を付けて放流したとの記録も残っている。また、たびたび行われていた卵の搬送については容器内の温度上昇を防止するために氷を使用するなど、現在の考え方や手法と大きな相違のない保冷、防寒のしっかりとした技術的知識を持って事業に当たっていたことが分かっている。

 新たに予算をかけて施設が整備され、事業の順調な進展をうかがわせる資料も残されるなど、その後の事業推進に大きな期待が持たれていたとも想像される札幌偕楽園でのふ化試験だが、1880(明治13)年、担当が開拓使製楝(せいれん)課から勧業課へと担当替えとなったのを機に中止され、この年の放流をもって以降再開されることはなかった。  主な理由としては、水温の低い養魚池では良好な成育が見込まれない点、より増殖効果が見込まれる河川への変更などが提言されていたようで、あくまで同地でのふ化放流事業が試験的意味合いの強かったことがうかがえる。

 また、当時のふ化放流に対する考え方は本来生息していない良質魚種を繁殖させる手段という側面が強かったこともあり、元から資源が豊富なサケ・マスよりもベニなどの優良他種を念頭にしたものに切り替えるべきとの思惑もあったようだ。ただ何よりもこの時点でのふ化事業継続について、多くの関係者がその困難さを痛切に感じていたということも中止を後押しした大きな要因と推測される。

 

 同時期の「七重試験場」も4年余りで廃止へ

 当時、この「札幌偕楽園ふ化場」とほぼ同時期に本道ふ化事業の黎明期を形作ったもう1つのふ化場「七重勧業試験場」について簡単にまとめると、この試験場も札幌偕楽園(札幌官園)と同様に北海道の産業振興を目的に函館近郊につくられたものだった。

 場内にふ化施設が設置されたのは1878(明治11)年だが、前年秋と推察される時期に予備的ながら人工採卵を実施したとの記録が残されており、札幌よりも約2ヵ月ほど早く人工ふ化に挑戦した形になる。記録によると、1878年に遊楽部川でマス卵300粒を採卵し1881(明治14)年まで約50尾を飼育、翌年には茂辺地川でサケ卵9000粒を採卵し100尾の飼育に成功している。

 ふ化試験は1881(明治14)年までの4年間で、札幌偕楽園と同様に短期間に終わる。ネズミや水虫の被害もあって扱った卵数は少なかったものの、偕楽園ふ化場よりもふ化成績は良好だった。  また、1879年(明治12)年に茂辺地に設立された民間初の「茂辺地孵化場」と官民の技術交流を多く行うなどの功績も残した。事業の中止は偕楽園と同じく養殖事業として見込みがないものと判断されたと推測されるが、皮肉にも茂辺地の民間施設が本試験場の役割を担うものとして試験打ち切りを促す要因になったとも推測される。

現在まで連綿とつながる本道ふ化事業の源流・官営「千歳中央孵化場」の開設は1881(明治21)年のこと。

 この民営「茂辺地孵化場」は人工ふ化技術による資源の維持を念頭に置いた最初の施設と言われ、本道の人工ふ化事業の原点として位置付けられる。そして1881(明治21)年には現在まで連綿と連なる本格的なサケ・マスふ化事業の本流となる官営の「千歳中央孵化場」が開設されることになる。(つづく)

  「週刊サケ・マス通信」2011年3月17日配信号に掲載 (参考文献=「北海道鮭鱒ふ化放流事業百年史」、元水産庁道さけ・ますふ化場長・小林哲夫氏著「日本サケ・マス増殖史」)

 幻の札幌「偕楽園ふ化場」―4へ

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